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フィギュアレビュー、本・漫画の感想など

卒業できないオタク趣味

ネタ

 はてブ見てたら、オタク趣味の卒業とかいう話題をちらっと目にした。それでちょっと考えた。考えはとくにまとまっていない。
 

ぼくは自分がオタクじゃない状態が想像できない

 気づいた時にはオタクっぽいことになってたと思う(そこまでガチじゃなくて永遠ににわかだけど)。というのもぼくが小さかったころ、プレイステーションセガサターンが次世代機で戦っていた時代で、『ファイナルファンタジーVII』が話題になってたのに、ぼくはサターンで『アルバートオデッセイ外伝〜LEGEND OF ELDEAN〜』をやっていたんだよなあ。なんでサターンを選んだのかよくわからないけど、ぼくはサターン派だった(サタマガをかならず買ってた)。FF6は普通にスーファミでやっていたし、PS買ってもらってもよかったはずなのに、なぜかぼくはサターンを選んだ(当時同級生のなかでゲーセンにあった『デカスリート』がはやっててね……。秋葉原にいって仲の悪い父に買ってもらったなあ。なんで買ってくれたんだろう。すごい嬉しかった)。サターンには『タクティクスオウガ』と『グランディア』があったし、ぼくの選択は間違ってなかったと思うけど。まあどちらもPSに移植されたがw
 気づいたときにはサターン派だったし、コロコロじゃなくてボンボンだったし、ぼくは最初からオタク気質だったような気がする。美少女が犯されるという状況を毎日寝る前に想像してた。たとえば『ドラゴンボール』の18号。たとえば『クロノトリガー』のマール。たとえば『ロミオの青い空』のアンジェレッタ。そのころぼくはセックスなんてなんだか知りもしなかったけど、地面に打ち付けた杭に美少女の手足をぐるぐるまきにして動けないようにして「いや、いや……」と言わせながら股間をまさぐるということを考えていた。これって人間の本能なんだろうか。まあ保健の授業はあったはずだけど。
 いろいろ脱線しながらいろいろなものに手を出してきたけど、結局ぼくはオタクなんだよなあと思う。
「物語」というものに本格的にはまったのはそれからすこし成長して『ファイナルファンタジーIX』なんだよね。あれのシナリオにひどく感動して、そこからいろいろはまった。でもやっぱりそれはゲームだった。小説じゃなくてね。ゲームは視覚にも訴えるし、音楽もあるし、自分で操作するしで、とにかくわかりやすいんだと思う(EDの歌詞がとてもいい)。とにかく当時のぼくは衝撃を受けてね。それで夕方アニメとかも見るようになった。
 しばらくして『ファイナルファンタジーX』のあとに『機動戦士ガンダムSEED』が始まる。これでなんか完全にはまってしまったな。EDの「あんなに一緒だったのに」が流れたところで、なんだこれは、すげえぞと思った(ネットの種叩きはすごいけどw)。そのときから声優ラジオも聞き出した。あ、ちなみにSEEDで一番好きなキャラはディアッカです。
 それからなんだかんだと時間は流れ、『蒼穹のファフナー』『ARIA』にはまる。ゲームとしてはずっとテイルズシリーズをやってて、リバースクソゲーだなとか思いつつ、PS2までは全作品やったはず。ちなみにテイルズで一番好きなキャラはリバースのアニーです。ゲームの評価とキャラの評価は関係ないんすよね。
 それからPS3の時代になりゲームはやらなくなった。でも逆に深夜アニメはよく見るようになったな。本もよく読んでいたけど。
 最近はなんかもうあまりアニメも見なくなってしまったけど、自分がオタクを卒業したのかっていったらそれはどうなんだろうって思う。ぼくがこれから書こうとしている小説はスティーヴ・エリクソンジュリアン・グラックとチェーゼレ・パヴェーゼ大江健三郎を混ぜてオタク趣味をプラスしたファンタジー小説。まあ幻想文学とでもいうのかよくわからないけど。いままでの人生の集大成だ。でもなんか調べててわかったんだけど、創元社のファンタジーは第2回とか募集してないね、いまのところ。ぼくは第2回があると思って1回スルーしたんだけど、あれって何周年記念の賞だったのかもしれない。そうなると発表する機会がなくなってしまうw でもとにかくぼくにオタク的なものはついてくるんだよな。どんなに純粋に文学をやろうとしたところで、アニメゲーム漫画で育ったぼくとしてはそういうものの想像力をスルーすることはできない。確実にぼくを形成してきたものだからね。
 文学文学というけれどアニメもなかなか馬鹿にできないもので、ぼくは遊戯王シリーズはかなりシナリオとしてレベルが高いと評価しているよ。あれは日本人じゃないと作れないね。とてもクレイジーでパッションに満ち溢れてる。あれはすごいものだよ。ネットでかなり叩かれてるけど、ゼアルでシャイニングドローが出たときは、スタッフわかってるなと思った。すごいよ。こういうのも作れちゃうんだ。真面目な話、ゼアルは漫画版『風の谷のナウシカ』と同じレベルに達してるし、十分それを越えていってると個人的には思う。
 まあアニメの話はともかく、ぼくは高校のころ声優になりたくてさ。東大理二に行くか声優専門学校に行くかで本気で悩んだ。基本アニメオタクではなくて、ぼくは声優オタクなんだ。どんどん若手が出てくるけど、なぜかわからないけど、ぼくは話題についていけてるからぎりぎりいまだってやっぱり声優オタクだろう。やっぱりいい新人が出てくるとうれしいよね。ちなみにいま好きな声優ラジオはこれ↓hibiki-radio.jp
 ぼくがオタクを卒業する日はあるんだろうか。なんか最近ネトウヨの書き込みでなんか事件があったけど、痛いニュース見たら、ぬいぐるみ持ってるってことがコメンテーターに叩かれてたね。おいおいと思った。ぼくはゲーセンのフィギュア集めてるぞ。たぶん20年後も集めてるぞって思ったね。最初はぽてうさろっぴー取ってたんだけど、結構場所取るんだよね。だからフィギュアにした。かわいいものに包まれた生活はいいよ。なんかほっとする。ここにはぼくを攻撃するものはないんだって思う。それが幼稚なのはわかっているけれど、人間って大人にならなきゃいけないものなのか?
 たとえば左寄りの作家の小説を読むと若いなあと感じることがある。でもそれはそれでいいんだ。というかその若さこそぼくらが求めるものなんじゃないか。ぼくらは大人になるにしたがって現実を見るようになってしまう。理想というある種の熱狂の状態から熱が冷めて、だんだん靄が引けてくると本来の現実が輪郭をもってだんだんくっきりと見えるようになってくる。なんだろう、それまで見えていた世界と違うぞ、どうすんだこれ、と思う。
 オタク趣味っていうのは悪く言えば現実逃避だけど、そこには現実と幻想の境目みたいなものがある。そのあわいを漂う感覚。オタク趣味っていうのはどこまでいっても幻想的でファンタジーだと思う。リアルだと言われるものですらぼくにはファンタジーにしか見えない。そこにはある解釈がはさまれて、リアルそのものではいられず、半透明の膜の上からぼやっと眺める感じ。それがオタク的なものの見方なんじゃないか。リアル社会で微妙に主流派になれず、浮ついた存在でいるしかないから、主流派の語る現実はオタクにとってはそこまでくっくりとした現実ではないし、オタクが現実を見て解釈するなら、それはどこかファンタジー的な色を帯びる。ぼくらはある種の他人事感とでもいうような人生に対した冷めた視線を持っているような気がする。幼少期にいじめられた経験ってのが多くのオタクにはあると思うけど、そういうのも関係してるのかな、個人的にはね。世界に存在しながら、世界に属していないような感覚。

オタク趣味を卒業したオタクはどうしてるんだろう

 これは気になる。
 ぼくはずっと創作が人生の基本にあった。何かを表現したいと思った。でもその段階ではできないということがやってみてわかった。だから自分に足りないものをいろいろと補強していくことにした。気づいたらいい年になっていたけれど、べつにやめる気はない。やっとはじまったところだ。だから40歳になってもやってるだろうし、70歳になってもやってるだろう(生きてたら)。文学ってのは一生をかけるだけに値するものだとぼくは思っている。他の人がそれはないわといったところで、ぼくは芸術というものはそれだけのものだと信じているからね。ぼくは売れないかもしれない。でもそれはそれでいい。表現をするということが大事なんだ。自分のなかにあるものを組み立てていくということがね。自分で真理を追究したい。ただそれだけ。
 ぼくはそういう人生の指針があるけれど、オタク趣味を卒業したオタクはどう折り合いをつけているのだろう。それまでの人生を否定するようなことはないと思うけど、その後の人生本当にしあわせなのかな? ぼくは70歳のおじいちゃんが萌えアニメ見ててもいいと思うんだよね。70歳なりに思うところはあるだろうし。結婚しました、はいオタクやめますってひとが、30半ばでリアルな人生に放り出されたときに耐えられるんだろうか。ぼくらはいままでオタク的なものの見方をしてきたのに、いきなり〈向こう側〉の住人になることを要求されるなんて。いきなりファンタジー世界の住人になれっていわれているようなもの。ぼくらはヒーローじゃなくてモブの側の人間なのに、ヒーローになりなさいと言われるわけだ。その重圧ってどんなもんなんだろう。
 辛くなったら戻っておいでっていいたい。たしかに深夜アニメは若い人向けだとは思う。とくに思うのはエヴァとかまどマギとかああいう系統ね。ああいうのを年取って見るのはくすぐったくて無理。でもアニメっていってもいろいろあるからね。バカアニメとかがいいんじゃないかな。というか日本の強みって、ああいうぶっとんだユーモアだと思うんだよね。正攻法のシリアスじゃなくてさ。評価されるべき軽いものが評価されず、周回遅れの重厚王道SFばかりが評価されてる感じはする。
 自分を偽って生きるのは大変だ。かっこいい俺を演じなくていいよ。

オタクは一生オタク

 これは生き方だ。男とか女とかそういう次元の前にぼくらはオタクなんだ。それは人間が人間であることをやめられないように、変更不可能なことなんだ。オタク的思考様式というものは自分の人生に染みついているし、それを変えようとしても戸惑い傷つくだけ。
 たしかに成熟した健全な社会人として要求されるのは非オタク的な立ち居振舞いかもしれないけれど、ぼくらはべつに健全な大人になってやる必要なんてないんじゃないか。反逆者でいたい。成熟したきれいな整ったうつくしい世界だけを世界だといわないでほしい。そのうつくしいデザイン、パッケージに覆い隠されてしまっている人間の汚い欲望、暴力性、そういったものをぼくらは人間という存在から切り離してはいけないはずだ。ぼくらは排泄もする。美少女だって排泄する。人間は汚い。ぼくらオタクは現実をファンタジーの膜によって解釈しているが、その現実自身がある種の機械化によってスタイリッシュで近未来的で直線的でうつくしいものになってしまっている。ここで思う。現実が非現実に近づこうとしている世界で、どっちが現実なんだ。非オタの現実はいま現実自身から離反しようと頑張っている。それがさまざまなうつくしいきれいなにおいを感じさせないデザインだ。なんだろう。オタクの見ている無菌状態のファンタジー的現実に近づいてきているじゃないか。でもぼくらはそれが非現実でファンタジーだともちろん知っている(現実に嫌というほど失望したのだから)。一方、非オタはそれが現実だと思い込んだまま時代の流れに身を委ねていくだろう。ぼくらはその現実の欺瞞について知っている。
 オタクにはオタクにしか見えない世界がある。世間の人はそれがありえなーいというけど、べつにそれはそれとしてスルーしておいていいんじゃないか。オタク的な想像力がむしろ現実を深くえぐっていく。その考え方を変える必要はどこにもないと思う。オタクは否定される存在かもしれない。でも否定されるからこそ価値があると思う。世界に対する解釈によってもうひとつの世界を見つけることができるという可能性を残しておくことができるのだからね。それは人間の自由につながるものだと思う。ぼくらはいろんなものにからみつかれて日々足を引きずって生きているけれど、自由があるとしたら、それは想像力の飛翔なんだよ。それはどこまでも高く上っていく。あらゆる壁を乗り越えて、あるいは風穴を開けて。人間はどこまでいけるのだろう。
 たとえ最底辺で貧困にあえいでいたって、河原で死にかけで横たわっていたって、想像力は大気圏を軽々越えていくよ。ぼくらは星になって宇宙を見渡すだろう。