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純文学は終わったのか、あるいは芸術とは何か

 芥川賞とかまったく興味ないんですが、そんなぼくでも目にしました。お笑い芸人の又吉直樹さんが芥川賞受賞したらしいですね。おめでとうございます!

火花

火花

 アマゾンレビューを見るとすごい批判されてますな。で、この批判者たちは普段どれだけ純文学作品を読んでいらっしゃるのでしょうか。又吉さんはかなり読書家みたいですし(日本文学に関してはぼくなんかよりはるかに詳しい)、ぼくはかれの作品読んでないけれど、それなりのものを書いたんだろうなってことはわかりますよ。まず芸人として売れてる時点でその辺の小説家志望とはセンスが違うんですよ。とあえて小説家志望が言っておきますよ。
 ところで1980年代から芥川賞受賞者を並べると次のようになります。引用はウィキペディアです。

1980年代

第83回(1980年上半期) - 該当作品なし
第84回(1980年下半期) - 尾辻克彦「父が消えた」
第85回(1981年上半期) - 吉行理恵「小さな貴婦人」
第86回(1981年下半期) - 該当作品なし
第87回(1982年上半期) - 該当作品なし
第88回(1982年下半期) - 加藤幸子 「夢の壁」、唐十郎「佐川君からの手紙」
第89回(1983年上半期) - 該当作品なし
第90回(1983年下半期) - 笠原淳「杢二の世界」、高樹のぶ子光抱く友よ
第91回(1984年上半期) - 該当作品なし
第92回(1984年下半期) - 木崎さと子「青桐」
第93回(1985年上半期) - 該当作品なし
第94回(1985年下半期) - 米谷ふみ子「過越しの祭」
第95回(1986年上半期) - 該当作品なし
第96回(1986年下半期) - 該当作品なし
第97回(1987年上半期) - 村田喜代子「鍋の中」
第98回(1987年下半期) - 池澤夏樹「スティル・ライフ」、三浦清宏「長男の出家」
第99回(1988年上半期) - 新井満 「尋ね人の時間」
第100回(1988年下半期) - 南木佳士ダイヤモンドダスト」、李良枝「由煕」
第101回(1989年上半期) - 該当作品なし
第102回(1989年下半期) - 大岡玲「表層生活」、瀧澤美恵子「ネコババのいる町で」

1990年代

第103回(1990年上半期) - 辻原登「村の名前」
第104回(1990年下半期) - 小川洋子「妊娠カレンダー」
第105回(1991年上半期) - 辺見庸「自動起床装置」、荻野アンナ「背負い水」
第106回(1991年下半期) - 松村栄子「至高聖所アバトーン」
第107回(1992年上半期) - 藤原智美「運転士」
第108回(1992年下半期) - 多和田葉子「犬婿入り」
第109回(1993年上半期) - 吉目木晴彦「寂寥郊野」
第110回(1993年下半期) - 奥泉光「石の来歴」
第111回(1994年上半期) - 室井光広「おどるでく」、笙野頼子「タイムスリップ・コンビナート」
第112回(1994年下半期) - 該当作品なし
第113回(1995年上半期) - 保坂和志「この人の閾」
第114回(1995年下半期) - 又吉栄喜「豚の報い」
第115回(1996年上半期) - 川上弘美「蛇を踏む」
第116回(1996年下半期) - 辻仁成「海峡の光」、柳美里「家族シネマ」
第117回(1997年上半期) - 目取真俊「水滴」
第118回(1997年下半期) - 該当作品なし
第119回(1998年上半期) - 花村萬月ゲルマニウムの夜」、藤沢周ブエノスアイレス午前零時」
第120回(1998年下半期) - 平野啓一郎日蝕
第121回(1999年上半期) - 該当作品なし
第122回(1999年下半期) - 玄月「蔭の棲みか」、藤野千夜「夏の約束」

2000年代

第123回(2000年上半期) - 町田康「きれぎれ」、松浦寿輝「花腐し」
第124回(2000年下半期) - 青来有一「聖水」、堀江敏幸「熊の敷石」
第125回(2001年上半期) - 玄侑宗久「中陰の花」
第126回(2001年下半期) - 長嶋有「猛スピードで母は」
第127回(2002年上半期) - 吉田修一パーク・ライフ
第128回(2002年下半期) - 大道珠貴「しょっぱいドライブ」
第129回(2003年上半期) - 吉村萬壱ハリガネムシ
第130回(2003年下半期) - 金原ひとみ蛇にピアス」、綿矢りさ蹴りたい背中」(最年少受賞)
第131回(2004年上半期) - モブ・ノリオ「介護入門」
第132回(2004年下半期) - 阿部和重グランド・フィナーレ
第133回(2005年上半期) - 中村文則「土の中の子供」
第134回(2005年下半期) - 絲山秋子沖で待つ
第135回(2006年上半期) - 伊藤たかみ「八月の路上に捨てる」
第136回(2006年下半期) - 青山七恵「ひとり日和」
第137回(2007年上半期) - 諏訪哲史「アサッテの人」
第138回(2007年下半期) - 川上未映子「乳と卵」
第139回(2008年上半期) - 楊逸「時が滲む朝」
第140回(2008年下半期) - 津村記久子「ポトスライムの舟」
第141回(2009年上半期) - 磯崎憲一郎「終の住処」
第142回(2009年下半期) - 該当作品なし

2010年代

第143回(2010年上半期) - 赤染晶子「乙女の密告」
第144回(2010年下半期) - 朝吹真理子「きことわ」、西村賢太苦役列車
第145回(2011年上半期) - 該当作品なし
第146回(2011年下半期)- 円城塔「道化師の蝶」、田中慎弥「共喰い」
第147回(2012年上半期)- 鹿島田真希「冥土めぐり」
第148回(2012年下半期)- 黒田夏子abさんご
第149回(2013年上半期)- 藤野可織「爪と目」
第150回(2013年下半期)- 小山田浩子「穴」
第151回(2014年上半期)- 柴崎友香「春の庭」
第152回(2014年下半期)- 小野正嗣「九年前の祈り」
第153回(2015年上半期)- 羽田圭介「スクラップ・アンド・ビルド」、又吉直樹「火花」


 ぼくはこのリストを見て、芥川賞がすごい賞だとはまったく思いません。ていうか、みんなこのひとたち知らないでしょ? 知らないのになんですごいと思ってるのか謎です。又吉直樹さんが並んでても全然不思議じゃない。
 芥川賞が日本最高の文学賞みたいになってるのが悲しいですね。そもそも日本にまともな文学賞なんて存在しませんよ。ぼくは芥川賞よりも電撃大賞のほうが取るの難しいと思います。


 日本は良くも悪くもエンタメの国なんですよね。純文学なんてそもそも無理がある気がします。だれが理解できるんだろう。そこそこ頭のいい人ですらみんなストーリーのおもしろさしか興味ないのに。ストーリー考察やキャラ考察ばかりでちゃんと批評してるひとがほとんどいないですよね。


 芸術とは何か。これは難しい問題ですが、ぼく個人の意見としては、「永遠性」というキーワードで(ある一面に関しては)語れるような気がしています。芸術は時間を超えます、論理や言語を超えていきます、それは不分明でおぞましいものの領域を目指すものだと思っています。ある種の枠組だとか固定観念だとか定義だとかを超越したなにかです。それは無限の創造性です。完全なる自由です。境界線のない広がりです。
 ぼくは芸術に触れるとき、この世界の向こう側を見ます。もっとも過激なことをいうならば、完全な自然主義もそういった神秘に至りうるのです(無限性を無限性として捉えるかぎりにおいて)。ですが、日本の小説でそういう「永遠性」を見せてくれる作品がどれくらいあるだろうかっていうとなかなか難しいところです。なんかどうも感動だとかある種の合理化だとかで論理の枠内に丸く収めてしまっている。
 それは論理に収まってはいるべきではなく、すべては、メタファーを用いるならば、それは天啓であるべきです。言語によっては理解できないものであるべきだし、語り得ないものについてぼくらは語り続け、それに至る意志こそが芸術だと思います。それは具体的表現の前段階の表現であるし、ぼくらは完全な文章というものをもちろん知らないし、それはときにナンセンスでグロテスクなものかもしれません。それに批判が集まるのもわかります。あまりにも日常生活からかけ離れているから。
 ですが、ぼくらの言語はそもそも世界を分割して都合よく解釈してみせているだけで、そもそもこの世界そのものを捉えてはいません。この世界そのものは言語に捉えられないどこか不分明でグロテスクなものとして、解明されない永遠の謎として、言語表現の遥か彼方にあります。それは近づこうとしても決して近づけず、永遠の断絶がそこにあります。細かく切り刻んで分析すればするほど、その構成要素は無限小に近づきますが、どこまでもぼくらはそれをかっちり一対一で完全に捉えたとはいえないのです。いつもつねにさらに細かいものがある。ですが、ぼくらはその断崖を越えようと意志します。これが芸術の意志です。それはある種の飛躍です。それは非論理性です。
 本物の世界を見てみたい。どうしてぼくの目はこんなに不完全なのだろう。何かを見ている気になっていても実際のところは見た気になっているだけ。ぼくは何かを名指ししますが、本当にその名によってそれを捉えきれているのだろうか。すべては言語の外にあるのではないか。世界はもっと自由で、まだまだ見知らぬ可能性で満ちていて、もっと鮮やかで感動的なのではないだろうか。腐敗というものは非運動性を意味すると思います。ある膠着状態、盲目的信仰に至ってすべては死にます。なぜ仮の決定を最終的決定だと思い込んでしまったのか。信仰とは堕落です。ぼくらが何かを信じるべきだとするならば、それは名指しできる対象であってはなりません。何かを明確に指示し、それを信仰した瞬間にぼくらは堕落します。あるいはもっと過激なことをいうならば、ぼくらは何かを語った時点においてすでに堕落しています。
 ぼくらが何かを語ろうと思い立つその瞬間、その語る対象を捉えたと思ったその瞬間に、その対象はそこから抜け出し、ぼくらが捉えたと思っているのはそれの幻影でしかありません。ぼくらが語っている時にはすでにその対象は抜け出しています。ぼくらは空虚な発話を行っています。その空虚さについて考察するのが芸術だとぼくは思います。なぜ到達しないのか、なぜそこに壁があるのか。
 これは自然科学がどんなに発達しようと人類の永遠の課題であり続けるんじゃないでしょうか。もし科学がすべてを語りうるなら、すべてを語りうるだけの言語を開発しなければなりません。そんなことが果たして可能なのでしょうか。完全な言語というものは存在するのでしょうか。ぼくは完全な言語というものは無時間的なものだと思っています。それは概念としての点として存在するかもしれません。ある一瞬が永遠を包括する、そんな言語です。ある神聖な言語表現aがあって、そのaが発話によって登場すると、それは宇宙の過去現在未来のすべてを語ってしまう、そんな言語です。そこにはコミュニケーションなど生まれないでしょう。なぜならそれは完璧だからです。それ自体ですでに完全で、なんらかの外部からの介入を必要としていません。その世界ではa=aでしかありえません。すべては同一の言語aによって語られ、しかしそのaは何によっても定義されず、それゆえaは無限に無限でありつづけます。それはすべての到達点であり、同時に死でもあるかもしれません。
 ぼくらはどこへ向かうのか。完全性を目指すならばそれは必然的に死の壁に阻まれ、不完全な日常言語に立ち戻るならそこには腐敗し堕落した言語表現、つまり感動や謎解きなどといったものしかない。
 それでもぼくらは反逆する。それが人間の永遠の夢だからです。