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田中美海です声優田中美海さんの魅力〜獲得しがたい直線性について〜

 書くことがないのでまた声優ネタで。いや、べつに需要はないんだけど、そもそもぼくのブログってもはや1日のPV100程度なので、まあべつになに書いてもいっかあという感じなわけです。
 ぼくは田中美海さんが大好きです。「ラジオ ハナヤマタ〜校内放送、しませんか?」が大好きだったので、もちろん上田麗奈氏も大好きなのだけど、今回は田中美海さんを語りたいと思います!

田中美海です」

 ぼくは田中美海さんが自己紹介するときに言う「田中美海です」が大好きです。この「田中美海だから田中美海である」という宣言にぼくはときめいてしまいました。どのくらい好きかっていうと、早見沙織さんが「ヤングガンガン」って言うのと同じくらい好きです。とにかくめちゃめちゃ好きってことです。
田中美海です」には抜群の説得力があるわけです。ただの自己紹介とはちがうとぼくは感じました。嘘偽りのない真実がそこにあって、その真実はぼくの脳にダイレクトにつながっているというか、とにかくガツンとくるわけです。「田中美海です」と聞くと、心の底から「なるほど、田中美海さんか!」とぼくは思うのです。当たり前のことだとみなさんお思いになるかもしれませんが、じつはこれってかなりまれなことなんですよ。たとえば佐藤翔子さんというひとがいたとして、彼女が「佐藤翔子です」といったところで、ぼくは佐藤翔子さんの佐藤翔子っぽさがいまいちぴんとこないんですよ。「ああ、よくわからないけど、とりあえず佐藤翔子さんね……(覚えておけたら覚えておくよ)」となるわけです。そういった点において、田中美海さんはちがいます。田中美海さんが「田中美海です」というとき、もはやぼくは彼女が田中美海さんであることをまったく疑っていません。雲はかかっておらず、完全に明快で爽快ですらあります。とても気持ちがいいです。
 田中美海さんの声はとても直線的だとぼくは思っています。それはとてもまっすぐでどこまでも突き進んでいきます。直線だからといって機械的つまり鉄のような冷たさを伴うのではなく、田中美海さんの声はむしろ日常性に溶け込んでいて、田舎の田園風景の素朴でのどかな空気すら感じます。それでも田中美海さんの声は直線的だとぼくは思うのです。それはある閃光とでもいうべきものです。
 ひとつ注意してもらいたいのは、田中美海さんの声が直線的だというのは、それは何かにぶつかると稲妻のように跳ね返ってギザギザに進むような不完全で暫定的な直線性とは違うということです。田中美海さんの声の直線は跳ね返りません。それは純粋な直線なんです。すべてを突き破っていくのともちがいます。接触も破壊もありません。宇宙全体に覆いかかる巨大な幻のオーロラの波(といってもそれは直線なのですが)がすべてを通り抜けていきます、というよりすでに通り抜けています。ぼくらはそれを回避することはできません。それはすべてを貫きます。ぼくらは目を見開いて、息もできずに一瞬のうちに全身に浴びるのです。隠れるところはありません。「田中美海です」とはそういう体験なのです。
 たしかに「田中美海です」というのはひとつのリアルな発話であり、それは音声を伴っています。それは確実に存在するものです。しかし、ぼくはそこに付随するもうひとつの効果というものを見るのです。その効果は同じ次元にあるのではなく、ひとつ上の次元に存在します。それは可聴域を超えたなにかというより、むしろ宇宙の外的な存在です。それはぼくらに認知できないのだけれど、ぼくらはその効果を確実に受け取っています。この感覚をぼくらは言語によって言い表すことができないのですが、たしかにぼくらは田中美海さんの声からその直線性を受け取るのです。それは宇宙を貫く完全な直線性を持った閃光です。ぼくらは田中美海さんによってすでに貫かれています。
 ぼくはいま一回の「田中美海です」を考えてみましたが、当然田中美海さんは「田中美海です」と何度もいうのです。田中美海田中美海であることを証明し続けています。しかしそれは無意味な同語反復なのではありません。それは複数回の発動によって威力を上げます。ぼくらはまず第一回の「(田中美海だから)田中美海です」を聞きます。そこでぼくらは「ああなるほど。たしかに」と思います。そして第二回の「(田中美海だから)田中美海です」を聞きます。するとどうでしょうか。ぼくらは「ああなるほど。たしかに」と思うだけにはとどまらないのです。ぼくらは二度目の「(田中美海だから)田中美海です」によって「そうさ。きみは"あの"田中美海ちゃんさ!」と思うわけです(「わかっているよ」という共犯関係に持ちこまれる)。さらに三度目となるとどうでしょう。ぼくらはもはや田中美海的なるものについて夜通し語れるくらいに成長しているのではないでしょうか。一度目は発見の喜びがありました。二度目はちょっとした照れもありました。ですが三度目ともなるとぼくらはもはや完全に、肉体、精神だけでなく、もっと深いところにある魂、あるいは前世と来世にわたって田中美海的なるものに、その直線に貫かれてしまっているのです。その直線性が成長しているのです。ですがそれは何かを巻き込んでというよりも、むしろ自己言及によって自己の内部から膨らんでいくのです。やがてその直線が宇宙全体を覆うでしょう。宇宙は「田中美海です」の大合唱に至り幸福になるでしょう。
 偉大な精神に触れるとぼくらはいつも一種の神秘に心を奪われるものですが、「田中美海です」はどこまでも純粋な直線だからこそ、ぼくらの魂を揺さぶって感動させてくれるのではないでしょうか。
 田中美海さんの声はとてもかわいいのだけど、ふにゃっとしてはいず、芯が強く、歯切れが良く、しかし鋭利ではありません。それは閃光なのですが、たとえば丸い直線とでもいうべきものなのです。これはなかなか面白いとぼくは思っていて、というのも現代というものは直線的なデザインに満ちていながら、むしろある曲線的なものによって表面を糊塗しようという傾向を持つからです。ぼくは田中美海さんの声は現代を象徴しているものだと思っていますが、それは象徴するといっても現代の閉塞感を象徴しているというより、現時点にたって、しっかりと打開策を打ち出しているのではないかと思っています。つまりぼくらの時代の直線はあまりにも堕落してしまったということです。
 現代ではさまざまなものを直線的なデザインによって作りながらも、じつはその芯は腐っています。表面上の丸みによってあたかも直線性を緩和しているように見えますが、現代はむしろその直線性の芯の腐り具合をごまかすために表面的に丸みをもたせているのです。ここで田中美海さんの声を考える必要が出てきます。田中美海さんの声はどこまでも完全な直線でした。芯は強く、まるで世界の中心を貫く神の矢のようでした。田中美海さんの声にともなう素朴さ、のどかさ、そういった丸みといったものは、むしろ真の直線によって生まれたものなのです。強靭な自己言及によって膨らんだ直線は直線でありながらも角が取れるものなのです。現代は! むしろ、すでに腐っている直線をさらに削ぎ取っています。これは死者に鞭打っているようなもので、これでは未来がありません。現代に必要なのはすっと立った強靭な直線なのです。ぼくらはあまりにも複雑になってしまいましたが、その過程で、むしろ複雑性を放擲してしまいました。直線は単純な概念でありつつ、むしろ無限に複雑な存在でもあります。ぼくらは偽の直線を称揚することによって真の直線から逃げてきました。
 田中美海さんの声が本当の直線というものに気づかせてくれます。時代が必要としているのはかわいい直線だとぼくは思うのです。