読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

愛してくれてマジ感謝

フィギュアレビュー、本・漫画の感想など

荒木宰、至道流星『大日本サムライガール新党』3巻

漫画 荒木宰 至道流星 ☆☆☆☆

 荒木宰、至道流星大日本サムライガール新党』3巻の感想です。最終巻です(´;ω;`)








 ぼくは荒木宰先生の絵が超大好きで今までも全部買って何回も読み返してきました。今回の作品は1話完結のラブコメというかギャグ作品で読みやすく、20年くらい続いたらいいなあと思ってました。
『いつか、夜明けの空で待ってる。』は絵柄がとてもよかったのだけど(ヒロインがぼくの学生時代好きだった女の子に髪型が似ていていろいろ妄想しましたw)、終盤でストーリーの貧弱さが際立ってしまい残念な終わり方になってしまいました。『桃の魔術師』はギャグは面白いし構成も完璧で洗練されているのだけど、絵柄が子供向けで、これの前作『いつか、夜明けの空で待ってる。』の絵柄が好きだったぼくとしてはもっときれいに描けるのに荒木宰先生があえてこういう絵を描くのはちょっともったいないなあと思って読んでいました。
 そこにきて『大日本サムライガール新党』です! 『いつか、夜明けの空で待ってる。』のころのきれいな絵柄に戻り、かつシリアスを放棄しギャグというかラブコメ路線になりました。きれいな絵柄なのでシリアス描写が似合いそうですが、そこであえてギャグ方向に行くという選択は素晴らしかったと思います!(「おにっくま」の異次元感w) ぼくは文学オタクなのでシリアスにはどうしても評価が厳しくなるということもあって、漫画はギャグやコメディや日常萌えが好きなんです。そういう意味で『大日本サムライガール新党』のギャグ&ラブコメ路線は個人的に大当たりで大好きでした。でも3巻完結(´;ω;`)




 3巻では主人公の神楽日毬の存在感がかなり薄くなって、斎藤と桃園さんがメインになってます。神楽日毬は主人公というより主題といった感じの存在。神楽日毬自体にはあまり魅力がないというかいまいちどういう人間だかわからなく、つかみどころのない存在といえるかもしれない。彼女の周りに起きる現象を楽しむ作品かな。斎藤、桃園さん、その妹、おにっくま、先生その他。途中からは斎藤と桃園さんのラブコメになっていきましたね。
 斎藤は日毬のことが好きなのだけど、そもそも彼女はアイドルなのでどうともなりようがないわけですよね。彼女は偶像だから手は届くし、そこに形もあるけれど、その本質には触れられない存在なのかもしれない。「友達」だから会いたいときに会えるし、ネット時代の今、連絡とろうと思ったら簡単に取れる。そういう意味で実在している。でも「斎藤」に「手紙」は届かず、真意は闇の中ということ。彼女の本質はよくわからないままでした。「真正なる右翼」というつかみどころのない属性があるのみ。それはあまりにも端的な表現であって、ひとりの人間を表現するには全然足りない。
 逆にそれとの対比で桃園さんの人格はよく伝わってきました。等身大の桃園さんと、アイドル、偶像である日毬。
 一方、若菜あゆみは日毬に憧れて「おにっくま」というゆるキャラに転生するのだけど、あれは理想の自分と同化したものであり、笑いのなかにも一種のグロテスクさがある。日毬はアイドルであるので形を保てているのだけど、若菜あゆみはただの人間だったため不完全に転生してしまった(頭部だけ)。普通の人間には理想と同化するだけの強度がない。日毬が神なら若菜あゆみは神と人間の混血、そして桃園さんは人間。若菜あゆみはそういう意味で桃園さんを超えている(人気の描写もある)のだけど、ただおそらくあのキャラはすぐに陳腐化して人気もなくなっていくのだろうということが容易に想像できる。日毬は通常の時間のなかには生きていない(永遠の17歳)けど、若菜あゆみは時間の中に存在する神と人間の混血であり、老いていく物質的な存在にすぎず、そこにおかしさと悲しさがある。
 とにかく桃園さんがかわいかったです。人間の等身大の平凡な愛を肯定した作品だったわけです。





 先生がマルクスと日毬のどっちを取るかと悩むわけですが、どちらも宗教性を帯びているという意味で同等の存在ということもできる。行き過ぎた右翼は行き過ぎた左翼と区別がつかない。政治闘争がある種の宗教戦争に通じるということ。何かに陶酔し傾倒するということの危険性を見ることもできる。客観的に見たらアホとしか思えないけれど、本人は真面目に考えているつもりでいる。どんな人間にもつねに盲点があり、ひとは自分の盲点にいつも無自覚であるということ。それが人間の不完全さ、滑稽さというものであり、悲劇であり喜劇であるということ。そういう世界で何を肯定し何を選択するのか。日毬の主張には過剰さ、偏りが常にある。神秘的存在であるがゆえの、荒削りだが桁外れた力強さとでもいうべきもの。原始の神の一撃。でも残念ながら現代では神は死んでいるわけです。神の一撃はいつも空振り、むしろ人びとから苦笑されている。





 斎藤の名前が最後まで明かされないのがよかったです。桃園さんに本当の名前を伝える日は来るのか!? 「あと僕斎藤じゃないよ」。大事なことなのに斎藤本人もいつもついで扱いしてるのが面白い。というか、斎藤について語るとき斎藤が斎藤でないとわかっているにもかかわらずぼくらは斎藤と言って名指ししなきゃいけない。彼が本名を明かしたとしても「斎藤は……である」と語るわけで、まずなによりも最初に彼は斎藤であって、斎藤でありかつ本名があるというわけで、本当の名はつねに隠されている。斎藤は斎藤だから最初から斎藤だった。その命名は神話的な出来事だった。日毬の創造した最初のものは斎藤という名なのかもしれない。まず名前をつける必要があった。そこから日毬を取り巻く世界は広がっていった。




 よくわからない感想になりましたが、荒木宰先生の次回作に期待です(`・ω・´)
☆☆☆☆