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フィギュアレビュー、本・漫画の感想など

今までの人生で、仕事でも生活でも、役立った本の圧倒的No.1は『ロックマン4』の説明書だった

 はい。便乗記事です(*´ω`*)
fromdusktildawn.hatenablog.com

 哲学いいですよね! さすがはてな界の生きる伝説、天才フロムダさんは言うことが違うな! でもロックマンはもっといいですよね!

ロックマン4 〜げーむのせつめいしょ(仮)〜 (ファミコン編)




 ロックマンの説明書にはすごいことが書かれています。なんとAボタンを押すとジャンプして、Bボタンを押すと攻撃するというのです。左右のボタンでロックマンを歩かせることもできるようです。ぼくはこの説明書きを見た子供のとき感動しました。ボタン一つで人間を動かせるんだ!
 従順なロックマンはAボタンを押すと真上に飛び上がり頂点で勢いが殺されるとまた地上に落ちてくるというのです。これはすごい! ぼくは夢中でAボタンを連打する妄想をしました。人間を無意味に飛び上がらせることができるなんて夢のようだ! 説明書を見ながらぼくは喜びに震えました。ぼくは妄想のなかでロックマンをジャンプさせ続けました。Aボタン→飛び上がる→Aボタン→飛び上がる→Aボタン……。
 そんな妄想をしているうちにぼくはある違和感に気づきます。それがなにかというと、一瞬ですがボタン入力とジャンプの間にタイムラグがあるような気がしてくるということです。Aボタンを押したと同時にロックマンがジャンプするのだとぼくは思っていました。ですが、どうもロックマンの反応速度はそこまで速くはないのではないかと思ったのです。ぼくとロックマンの間にどうしても壊せない壁あるいは薄い膜といったほうがより正確でしょうか、とにかくある隔たりがあるのだと気付きました。たしかにぼくがAボタンを押すとロックマンはジャンプしますから、ぼくとロックマンが見えない糸で恋人のごとくつながっているのは間違いありません。でもぼくらは完全にゼロ距離だったのではなく、たしかにぼくらの間にはある明確な距離があったということです。こすれ合う陰茎と膣が融合して同一化してしまうことがないように。
 ぼくはそこでロックマンとは他者なのだと思い知ったのです。決して自分と同一にはなり得ない存在。ロックマンはぼくによって動かされます。ぼくの拡張された手足といってもいいでしょう。ですが、ぼく自身ではないのです。ぼくとつながってはいるけれど、ぼく自身と同一にはなれません。どれだけ重なっているように見えてもぼくらの間には無限小のタイムラグがあり、ぼくらはその境界線を越えて完全に同一になることはできないのです。
 ぼくはそれを知って泣きました。ぼくはAボタンを押したと同時にロックマンがジャンプしていたとしたらそれほど罪悪感はなかったのです。たしかにそれは不条理な運動ですが、ぼくはロックマンとその神罰を分かち合っていることになるからです。ですがぼくらの間にわずかでも隔たりがあったとしたら、ぼくがAボタンを押すことによってロックマンにジャンプを命じていることになってしまいます。ぼくらが同一であったらそこに主従も上下関係もなかったでしょう。完全に同一であればそこに命じる→従うという時間的な流れが生じないからです。ぼくとロックマンはお互いが命じるものでありかつ行為する主体でもあったのです。ですが、ぼくらの間に隔たりがあるというのなら、つまりぼくらがお互いに相手を他者として認識する関係だとするならば、ぼくはAボタンを押すことによってロックマンにジャンプという行為を命じることになるわけです。ぼくがAボタンを連打することによってロックマンは連続ジャンプすることを強いられてしまうんです、まるで奴隷のように。
 これはぼくの意図したことではありませんでした。ぼくはロックマンのことが一目見たときから大好きだったし、いつも仲良くしていたいと思っていたからです。ですがぼくがこのゲームをプレイするということはロックマンに命じることになってしまいます。それではロックマンの人権があまりにもないがしろにされているのではないかとぼくは葛藤しました。
 悩みはこれだけにとどまりませんでした。チャージショット。4作目にして導入された革命的システム。「Bボタンを一定時間押し続けることによりロックマンは気合いを溜め、通常の何倍もの攻撃力のある弾を発射」するのです。
 一定時間? ぼくは考えました。はて? それはどの程度の時間なのか? たとえばぼくが一定時間経過したと判断しBボタンを離したとき、ロックマンがチャージショットを撃つかどうかはあらかじめ決まっていません。
 仮に経験によって1.5秒でチャージショットの準備が完了するということがわかったとしましょう。ぼくが1.5秒経ったぞとBボタンから指を離したとき、本当にロックマンはチャージショットを撃つのでしょうか。ロックマンは1.49秒と判断し通常攻撃をする可能性も考えられるはずです。ぼくらが親密に結びついているように見えてもそこにわずかな隔たりがあるということはすでに言いましたが、チャージショット問題によって、ぼくらの間にはそういう空間上の隔たりと同時に、認知的な隔たりもあるのだという問題が浮かび上がってきます(主にぼくのほうが時間感覚に関しては不正確という理由でそうなるでしょう)。ぼくらの判断は食い違うことがあるのです。ぼくはロックマンを手足のように動かすことができます。悲しいことですが、ぼくが命じることによってロックマンは行動するのです。ぼくはロックマンを支配しているようです。しかし、ぼくの命令がかならずしも機能しないことがあります。それがチャージショット問題ということになります。
 ここである微妙な関係性が生じてくると思います。Aボタンジャンプに関して考えるなら、ぼくはロックマンよりも有利な立場にいて、自分がロックマンに飛び上がる行為を命じている主人だと言っていいと思います。しかし、チャージショット問題について考えるならば、ぼくの意思はロックマンに拒否されうるということです。単純な主人-奴隷関係だったものが、チャージショット問題が生じたことによってより複雑なものになってきます。命令の拒絶という強い否定の存在が明らかになってきました。単純な主従関係のうちに収まっていたときぼくとロックマンの間には表立って軋轢はまだ生じていなかったでしょう。もちろんロックマンはなぜ自分が不条理にもジャンプをし続けなければならないのだと不満をつのらせていたかもしれませんが、絶対君主であるぼくには反抗できなかったのです。タイムラグがあるにせよぼくがAボタンを押したならば彼はかならず真上に飛び上がりそして静かに着地するのです。ですが、こういった一方的な抑圧の時代もチャージショットによって根底から変革されることになります。反逆とまで言う必要はないかもしれません。ですがいままでの均衡、平和は破られたのです。そこに政治性やコミュニケーション上の駆け引きといったものが生じることになったです。端的に言ってぼくたちは闘争状態に入りました。
 ぼくはロックマンの説明書を丹念に読み解きながら、他者との関わりについて深く学んだと思います。自分とまったく同一の存在などこの世にはいなくて、みんながそれぞれ個としての矜持と尊厳を持っていて、他者に対しての責任を持つということです。ぼくはロックマンとの初期の和やかなそして欺瞞的な関係性よりも、現在のすこし緊張した関係性のほうがより政治的には適切だと思っています。ぼくは絶対の神ではないのだから(あるいは絶対の神だったとありえない仮定をしようとも)ロックマンを一人の人間としてその人権を尊重する義務があると考えます。それがチャージショットでした。チャージショットは力です。従僕たちの力です。ぼくたちは彼らの力を無視することはできません。適度な緊張状態によって、ぼくらは彼らの存在を尊重することができるようになりました。
 そしてぼくはこのチャージショットという力が人間によってロックマンに与えられたという事実を見落としてはならないと思うのです。人間はみずからの倨傲への反省からこのような機能をロックマンに託したのではないでしょうか。そう考えるとぼくは人間という存在にすこしだけ希望が持てるような気がしてきました。ぼくがロックマンの説明書から得たのはあまりにも大きいものでした。コミュニケーション能力というものが重要視されるようになった現代ですが、いまこそぼくたちはロックマンの説明書という原点に立ち返って、他者に対する責任、思いやり、そういったものを考えてみるべきではないでしょうか。