愛してくれてマジ感謝

フィギュアレビュー、本・漫画の感想など

わかりやすいことと複雑なこと

 ぼくがネットを見てていつも思うのは簡単に語りすぎ発狂しすぎ攻撃しすぎじゃないかってことです。地獄だなあと思うのは、ある種のジャンルについて雑な語りを許さないような厳格なひとたちでさえ、自分が興味ない分野については雑に語ってしまっていることがよくあるということです(盲点の存在)。それを見るとどうも人間というのはどんなに知的な人物でも物事を矮小化し情報を縮減し簡単に語ってしまうようにできているのではないかなあと思ったりします(これ自体がまた雑な語りなんですが)。
 今回の記事自体が簡単なものなので矛盾してしまうんですが、まあとりあえず勢いで書いていきます。いまさらな話ではあります。

 何かないかなと考えたんですが、とりあえずふたつの図形を描いてみました。


 前者をX、後者をX′としましょうか。結論から言うと、ぼくらはXを語るべきなのにX′を語ってしまっているということです。Xを見ているはずなのに、脳内で意識的にせよ無意識的にせよX′に変換してしまっているのです。
 ある対象はXのような漠然とした取り留めのない、ある名詞によって名指しできない複雑さを持っていますが、ぼくらはそういった対象について日常的にX′として語ります。Xのような複雑な図形について、ぼくらは単にX′のようなわかりやすい図形で置き換えて「円」として語りがちです。これが根本的な問題であり、人間の理性の限界もここにあると思います。ぼくらはX自体を完全に理解することはできません。デジタル化して無限小に分割し、情報量を無限に増大させ、その無限の情報を一瞬で処理しきれるとすればこういった図形の理解は可能ですが、そういったことは人間のやることではないでしょう。そういったことは神秘体験の領域にあります。
 X自体について完全に理解することは到底不可能なため、ぼくらは無限に複雑なXについてX′というメタファーによって理解した気になるわけです。Xの情報をそぎ落として、単純化あるいは純粋化あるいは理想化し、X′というものによって代理させます。これは情報処理の負担を軽減するという意味でとても重要な機能です。ぼくらは日常の一回一回の体験でいちいち新鮮な感動を覚えたりはしません。「ああ、あれは机だ。そしてこれは椅子だ」とぼくらはある程度の場合わかります。それが机的なものであり、椅子的なものであると類似性によって理解できるからです。それは本来机以上の何かでしょうけれど、ぼくらはそれを机として単純化して理解するわけです。そしてこういったことは生活においてごく普通に行われていて、むしろこういった機能があるおかげでぼくらは情報処理の負担を減らし生きていくことが可能になっているわけです。無限にある対象それぞれがそれぞれ異なった名によって呼ばれるなら無限個の名が必要になりますが、現実的にはそういったことは起きてはいません。大量生産品の商品にしたって、完全に同じものは存在せず、そのそれぞれがどんなに陳腐だろうと差異によって区別されるでしょう。それにもかかわらず、ぼくらは日常生活において、普通に、これとあれは同じものと判断します。類似性によってそこで使用される名の有効範囲が拡張されています。
 ぼくたちが日常的に使っている言語ですが、これは原初的な暴力でもあります。なぜあるものがある名で呼ばれるのか。誰かが決めたからです。「お前はこれこれこういうものだ」と決めたからです。そういう定義に隷属させることにしたからです。神の一撃です。本来Xであったものが、X′によって語られるときそこに暴力が生じます。これは雑な語りがどうこう以前に言語自体の問題でもあります。名は何かを示します。しかしそれが示しているものはXとX′の区別のように、ある種の虚構が必ず伴っているということです。示すことによって、むしろ示すことができないのです。示しているものはX自体ではなく、X′になってしまいます。なぜならXだけを示すような唯一の名をぼくらは持たないからです。もちろんここで「X」といって名指ししているように特別な条件をつければ可能ですが、それは一般的な使用とは違ってアドホックな使い方です。
 とにかくぼくらが言語によって語る以上、複雑なことをわかりやすく語ってしまうことになります。複雑なことを複雑なまま語ることができればいいんですが、複雑なことは複雑なまま語ることすらできません。語った時点でわかりやすいもの(=X′)になってしまうからです。名によってその複雑性に限界をつけ、枠組みを与え、閉域に押し込めてしまうからです。
 一方で詩人の言葉は完全に新しい創造で、Xの領域を浮かび上がらせようとする運動です。おぞましくグロテスクなものの領域です。ぼくらが語り得ないものの領域です。語ることができるものは、名によって、どんなものによっても代理されることのない複雑性という本来の性質(=X)をそぎ落とされてしまっています。詩的言語はメタファーより前にあります。メタファーとはXをX′にする運動ですが、詩的言語とはX′からXを浮かび上がらせる運動です。ぼくはこういった詩的な世界の見方が他者に対する配慮を促すと思います。ことばというものと真剣に向き合っている詩人は語り得なさを知っています。ぼくらは世界を語りきることはできません。わかった気になって何かを語ってしまいますが、実際にどれだけそのものの本質を理解しているでしょうか。Xを理解したのではなく、Xを理解してX′として語っているのですらなく、X′を理解してX′を語っているだけなのではないでしょうか。それは世界そのもののメタファーにすぎません。便宜的につけられた名にすぎません。ぼくらはものの本当の名を知りません。
 なぜ簡単に語って簡単に発狂して簡単に攻撃してしまうのかとぼくはずっと考えています。それはやっぱり理解の放棄にあるんじゃないかと思ったりもします。それはとても都合がよく心地よいものなのです。「お前はこれこれこういうものだ」という暴力がそこにあります。なぜ発狂してしまうかについては、複雑性に論理的言語では理解が追いつかないからです。都合のいい、仕様書通りの敵にしてしまったほうが楽なのです。そしてなぜ攻撃してしまうのか。というより、複雑性になんら配慮することなく、真剣に対話しようとするでもなく、そこに〈敵〉を見た時点ですでにそれは暴力でしょう。敵以上の何かを敵という存在に陳腐化させる暴力が発生しています。暴力というのは処世術のようなものなのかもしれません。ぼくらはどうにもならないことをどうにかするために暴力に訴えます。Xのままでは語り得ないので、ぼくらはXをむりやり型にはめてX′に矯正させてやります。限界を安易に決めつけてしまいます、侮ってしまいます。
「人生に、文学を。」などというのが最近炎上してましたが、
www.jinsei-bungaku.jp
ぼくは人生に詩的言語というものは必要だと考えています。詩的言語には寛容さがあると思います。論理は切り刻み解体し分析しますが、詩は創造し、普段は隠れている世界それ自体を見せるものです。ぼくらは自分たちの日常言語あるいはその論理的な使用がX′しか語っていないという当たり前のことを自覚することから始めるべきだと思います。何かを限界付けるということ、領域を確定するということ、境界線を明確に引くということ、そういった行為は本来の姿を歪曲させます。
 ぼくらはまず他者に対する自分の暴力性に自覚的になり、それを前提にしてコミュニケーションを構築するべきではないでしょうか。原初的な暴力がまず言語とともにあり、他者が存在するということによって、というより、それを他者だと、ある限界づけられた存在だと認めた時点で、他者をX′として認めた時点で、そこにすでに暴力が紛れ込んでいます。ぼくらは「お前はこれこれこういうものだ」と暫定的にしろ判断してしまいたいのです。詩的言語の介入がすべてを解決するとは思いませんが、人間のもつ偉大な能力つまり想像力というものがすこしでも他者のありのままを見つめようとするなら、そこに不毛な攻撃や侮辱や残忍な殺戮などといったものは生じにくくなるのではないでしょうか。
 ぼくらは世界の豊かさに気づいていない可能性があります。「お前はこれこれこういうものだ」という価値観ですべてを判断し、すべてを「こうあるべきだ」という信仰によってあらかじめ決めてしまってはいないでしょうか。その世界は冷めきっていて、運動性を失い、閉鎖的な環境のなかで縮小しやがて消滅するでしょう。世界そのものから目を背け固定観念に支配されてしまっては人間が真に人間らしく生きることは難しいと思います。それは世界という既存のデータを入力されたやがて陳腐化する機械にすぎないでしょう。人間の詩的言語は人間に生気を与えると思います。ぼくらがぼくら自身の限界に自覚的になる、そのときにぼくらははじめて世界の大きさを知ることになるのです。ぼくらは語ることによって世界の何物も語ってはいないのです。そしてそのことによって世界と初めて出会うのです。