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ジル・ドゥルーズ『フーコー』

哲学 ジル・ドゥルーズ ☆☆☆

フーコー (河出文庫)

フーコー (河出文庫)

 ジル・ドゥルーズフーコー』の感想です。

ドゥルーズが盟友への敬愛をこめてまとめたフーコー論の決定版。「知」「権力」「主体化」を指標に、フーコーの軌跡と核心を精緻に読み解きながら、「外」「襞」「線」などドゥルーズ自身の哲学のエッセンスをあざやかにあかす。二十世紀、最も重要な二つの哲学の出会いから生まれた思考のドラマをしるす比類なき名著。

 



 ドゥルーズによるフーコーフーコーの死から二年後に発表されたものらしいです。ドゥルーズフーコーと交流があったみたいですが、追悼のためのエッセイとかではなく、普通にがっつりフーコー論になってます。
 ある程度フーコー読んでからの方がいいかもしれません。ぼくは『言葉と物』『知の考古学』『監獄の誕生』『ピエール・リヴィエール』しか読んでないのだけど、まあなんとかなりました。「古文書からダイアグラムへ」はちょっと読みにくいですが、「トポロジー、「別の仕方で考えること」」は読みやすいのでなんとかわかると思います。というかフーコーがよくわかった気になってしまうのでおすすめします。まあドゥルーズ解釈によるフーコーってことにはなりますが。
 以下目次

前書き


古文書からダイアグラムへ
 新しい古文書学者(『知の考古学』)
 新しい地図作成者(『監獄の誕生』)


トポロジー、「別の仕方で考えること」
 地層あるいは歴史的形成物、可視的なものと言表可能なもの(知)
 戦略あるいは地層化されないもの、外の思考(権力)
 褶曲あるいは思考の内(主体化)


付記――人間の死と超人について


訳註
訳者後記

 



 以下メモ

〈知-存在〉の二つの形態は、外部性の形態である。言表は一つの外部性のなかに、可視性はもう一つの外部性のなかに分散されるからである。しかし〈権力-存在〉は、私たちを別の要素に導いていく。形成しがたい、そして形成されていない一つの〈外〉に導くのだ。そこから、力とその変化する組み合せが生じてくる。そして、この存在の第二の形も、やはりまだ襞ではないのである。
(pp.211-212)

しかし、力のあいだの力として人間が、自分を組成する力を折り畳むことができるのは、外が自分自身を折り畳み、ある〈それ自身〉を人間のなかに穿つときだけである。すでに、形態がもつれ合い、戦いがすでに始まっているとき、第三の形象としてやってくるのは、まさにこの存在の襞である。そのとき、存在は、もはや「知的存在」(Sciest)でも「権力的存在」(Possest)でもなく「自己的存在」(Se-est)である。外の襞が一つの〈自己〉を構成し、そして外そのものが、共通の広がりをもつ内を構成するからである。存在論的な襞に到達するためには、地層的戦略的なもつれ合いを通過しなければならなかった。
(p.214)

超人とはいったい何であろうか。それは、これらの新しい力と結びついた、人間における力の組み合せの形態である。それは力の新しい関係から出現する形態である。人間は自分自身において、生命と労働と言語を解放するのである。超人とは、ランボーの定式によれば、まさに動物でみちた人間である(側面的な、あるいは逆行的な進化という新しいシェーマにおけるように、コードは他のコードの断片をとらえうる)。それは鉱石そのもの、あるいは無機的なものでみちた人間である(硅素が支配するような場所)。それは、言語の存在でみちた人間である(「形のない、無言の、何も意味しない、言語が、その言うべきことからさえ解き放たれているあの地帯」で)。
(p.251)

 




 フーコー著作はいろいろヘヴィで『言葉と物』とかやばいですが、この本は一連のフーコー著作がたった250ページで見渡せるようになってます。これは便利。フーコーを読み直してみたいと思ったし、まだ読んでない本、たとえば『知への意志』とかは読もうと思いました。『狂気の歴史』は絶版なのでしょうか??
☆☆☆

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