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フィギュアレビュー、本・漫画の感想など

ラノベやエンタメ小説は読解力を鍛えるのに向いていて、詩や純文学は向いていないと思う

ネタ

 こんなまとめがありました↓
togetter.com
 ぼくはラノベやエンタメ小説、とくにミステリ系ラノベやミステリは読解力を鍛える効果があると思っていて、逆に詩や純文学は読解力を鍛えるのには向いてないと考えています。なぜならエンタメ系は論理によって計算されて作られているのに対して、詩や一部の純文学など芸術性の高いものについては、論理を超える(あるいは外れる)、論理では捉えられない、枠や型によっておさめきれない詩的な世界を目指しているからです(それがやはり詩的な効果に対するある種の計算によって作られているにせよ)。ここで詩的というのは、無限性や永遠性や神性、ある種の語りえぬものを表現しようという創造的な意志を指します。

エンタメ作品には理屈がある

 エンタメ作品にはこうだからこうなってこうなりましたという理屈があります。エンタメ作品ではとにかくそういうのが多いです。論理的なんです。だからわかりやすいんです。そして日常的に言う「読解力」とは論理的に提示されたものの論理を適切に理解することです。
 エンタメ作品では、「こういう問題がありました」→「だからそれに対してこういう解決策を考えました」→「実際にこういう対処をしました」→「予想外のことが起こったのでさらにやり方を変えてみました」→「結果こうなりました」(→「後日談」)という流れがあります。主人公がヒロイン(またはある問題や謎)と出会うという作品全体の大枠がまず提示されて、ヒロイン(またはある問題や謎)についてのいろいろな体験だったり証拠集めが行われ、そうした事実を寄せ集めていった結果、ある結論が提示され、最終的にどうにかなります。序論本論結論やPDCAサイクルじゃないですけど、そういう構造になってます、大体の作品は。こういう論理を自然に無自覚のうちに吸収できるのがエンタメ作品だとぼくは思っています。それを〈テンプレ〉などと言ったりしますが、これは基本的な読解力を養うには重要なものです。
 エンタメ作品を数多く読むことによって、こうした素朴な論理の構造に親しむことができます。まったく読書をしないひとはこうした〈テンプレ〉に接する経験が不足しているので、単なる迂遠な茫漠とした流れとしか認識できない場合もあるかもしれません。そういうひとにはどの要素が他のどの要素とつながって共鳴しあってどういう結論を生み出したかなどを瞬時に把握する能力がもしかしたら養われていないかもしれません。そういうひとには複数の要素がすべてばらばらに完全に孤立した状態で見えていて、それぞれが意味のある関係としてつながってはいないかもしれません。そのような場合、頭の中でそれぞれの要素の関係性を効率的に整理していくことができないので、情報量が多くなると追いきれなくなるかもしれません。しかしエンタメ作品に親しんでいるひとならば、論理の型が自然に身についているので、ある要素をどこに分類し、ほかの要素との連関をどのように理解していったらいいかをほとんど無意識的に習慣として苦もなく行うことができるようになっているでしょう。100の要素があったとして、読書をしないひとが100のそれぞれを眺めてどうしたものかと悩んでいるところ、エンタメ作品に親しんでいるひとなら、〈テンプレ〉という型にそって分類して整理できるおかげで、たとえば100あった要素を導入I、途中の展開II、III、IV、結論Vなどに分類して、全体の見取り図をさっと描けるでしょう。この差は大きいです。
 ラノベやエンタメ小説は読解力を養うのにはいいものだと思います。それが論理によって計算されて作られているからです。読解力とは論理的に表現されたものの論理を適切に理解することです。



詩や純文学は論理を無視してでも言語の不完全性と闘う使命がある

 一方で、詩や純文学をいくら読んでも読解力は身につかないとぼくは考えています。なぜなら詩や純文学は素朴な論理の構造を破壊し超脱してその先に行こうとする意志を持っているからです。
 よく「詩も純文学もラノベと同じだろ!」とか言うひとがいますが、ぼくは明確に違うと思っています。エンタメは論理の娯楽、詩は非論理の娯楽と考えるからです。エンタメの言語は何かを切り取って名付けます。「これはこういうもので……」という語り方がエンタメです。一方で詩は語りえないというところから出発します。語りえないから黙っているのが最適解かと思いきや、詩なので何かを語らなければなりません。その瞬間の不可能性、そうした苦悩、絶望からはじまります。「お前はこういうものだからこのように振る舞っていれば良い」と命じるエンタメとは違って、詩は語りえないものに呼びかけます。A=Aであるという自同律を命じるのではなくて、神性について歌います。
 言語というのはあるものの代理です。「実際の犬」と「犬という言葉」は違います。実際の犬は無限に多様で同じものは一つとしてありませんが、ぼくらは犬という言葉によってそれを表現した気になります。実際の犬は犬という言葉によって自分が語られていると知ったら、無頓着さ、雑さに憤るでしょう。自分は犬ではないと、そんなものによって語りきれるような矮小な存在ではないと。こういった名付けは一種の怠惰であり、世界で生きることに必要な適応でもあります。ぼくらは現在犬と呼ばれている生物に対して、それぞれの多様性、差異によって無限の名前をその場その場で瞬時に生成し、そしてその言語の話者全体で共有するわけにはいきません。
 ですが、詩は諸存在の持つ、具体的な言葉によっては捉えきれぬ無限性にあえて挑んでいきます。ここにはやはりつねに絶望があります。言葉は語った途端にその価値を失い、褪色し、がらくたになります。その言葉を放った瞬間にすでに対象はそこからわずかにずれています。いつでも言葉と対象そのものの間に断絶があって、どうしてもその差を埋めることができません。何かを完全に語りきることなどできず、どうしても表現できない光の壁に跳ね返されてしまいます。そうした矛盾した運動です。神を観たら死んでしまうにもかかわらず、神を観ようとするのです(そして完全には観ることができない)。この世界の言語は堕落して腐りきったものです。言語は本来のみずみずしさと豊穣さを失ってしまい、ぼくらはそれによってすべてを名付けると同時に殺すことしかできなくなりました。しかし詩人はそうした宿命と闘うのです。
 こうしたことは読解力とはまったく無関係なことであり、ぼくは読解力を養うためには詩や純文学といったものはむしろ有害だと思います。



さらに読解力を養いたいなら

 読解力を養いたいなら詩や純文学じゃなくてラノベやエンタメ小説を読むべきというのが今回の主張ですが、さらに読解力を養いたいならどうしたらいいかぼくなりに考えてみます。



学術書を読む

 かっちりした文章と格闘することも大事だと思います。簡単なものばっかり読んでいても難しいものはいつまでたっても読めるようにはなりません。難しいものは難しいまま理解し、難しいまま思考することが重要です。「要するにこういうことで……」という思考はあまりよくないです。わかりやすくするというところにどうしても不誠実さが現れるからです。そのわかりやすい表現によって省かれてしまった大事な意味がたくさんあるわけです。3分で理解したものにはたいした意味はありません。それは他の人なら3秒で理解したかもしれません。その程度のことです。高度な読解力を養うのに近道はありません。苦しくても立ち向かっていく覚悟が必要です。



辞書を引きまくる

 あとおすすめは、知っている言葉でも国語辞典や漢和辞典をいちいち引くということです。不十分な理解で使っていた言葉もちゃんと辞書を引いてみることで理解が深まります。かならず用例も読みましょう。ぼくは大学1年のときにこれを徹底的にやったのですが、かなり読解力が高まりました。つねに『岩波国語辞典』と『角川新字源』持ち歩いて、いつでもどこでも調べてました。ぼくは高校時代国語が苦手科目だったんですが、大学1年のときのこの訓練によって苦手意識がなくなりました。いつも使ってる基本的な言葉でもそれまでかなりいい加減な理解だったことに気づかされました。自分に自信を持ちすぎないことが大事です。「それくらいわかってるわ!」ってほんとにわかってるの? どの程度わかってるの? って疑ってみることです。もしかしたら自分の理解が間違っているかもしれません。



自分で書いてみる

 大学生ならレポート書かされると思いますが、基本は序論本論結論の構造で大丈夫です。ブログでも同じことやるといいかもしれませんね。自分で実際に書くことで書き手の意図がわかるようになり、文章の読解力も飛躍的に高まります。そのパラグラフでは何を書けばいいのかつねに意識してみましょう。




 とまあこんな感じでしょうか。今日は大掃除して疲れました(´・ω・`)