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オクタビオ・パス『もうひとつの声――詩と世紀末』

もうひとつの声―詩と世紀末

もうひとつの声―詩と世紀末

 オクタビオ・パスの詩論三部作の三作目『もうひとつの声――詩と世紀末』の感想です。

 オクタビオ・パスの『弓と竪琴』が好きなのでこれも読んでみました。が、これは詩論というよりエッセイです。1990年に出版された本で、その年にパスはノーベル文学賞を受賞していますが、パスは1914年生まれなのでそのとき76歳。おそるべき76歳ですが、やはり老いを感じます(訳者はパスは最晩年まで老いを感じさせなかったと書いているけど)。すらすら読める200ページのエッセイで、パス自身が書いてますが、ひとことで言い表せばこれは「詩の擁護」です。詩的なものに理解のあるひとが読めば共感し勇気づけられますが、娯楽本や大衆向けの本を好んで読んでいるひとが読むと反感を持つでしょう。ただ、そういうひとはこの本を手に取ることはないと思いますが……




 にやりとしたところ↓

かつてラテン語ギリシア語が占めていた位置を、今は科学が占めている。その変化は無理なく自然に行われた。けれども、近代の迷信である科学主義が幅をきかせているというのは実に不当で、許しがたいことである。科学はそれぞれの領域において権威ある発言をすることができる。つまり、科学というのはひとつのものではなく、複数なのである。ところが科学主義は本来自然科学の領域ではない分野、つまり歴史と人間社会、個人とその情熱といったところにまで物理学や科学、生物学の推論を持ち込むきらいがある。
(p.121)

出版産業は本の多様性を犠牲にして部数を伸ばすことに躍起になっており、その結果、読者の多様性まで犠牲にされている。経済の他の分野では、多種多様な製品を作ることが何よりも重要なことであるのに対して、出版界では逆に均一化に向かう傾向がみられる。この場合、理想となるのは単一の読者である。つまり、すべての読者が同じ趣味をもち、同じ本を読むことが理想なのである。そのような本は数が多くなければならない。つまり、毎日のようにちがう作者の新しい本が出版されているのだが、そうした本は結局のところどれもこれもすべて同じ一冊の本なのである。
(p.130)

 




 この辺はおじいちゃんのぼやきに近いですね。いや、ぼくも同感ですが。




 詩については

詩人と恋する人たち、エピキュリアンと何人かの神秘主義者の時間はつねに今現在でありつづけてきた。瞬間は快楽の時間だが、それはまた死の時間、五感がとらえる時間、彼方が姿を現す時間でもある。新しい星――それはまだ歴史の地平線上に現れていないが、間接的、かつさまざまな形で現れようとしている――は、今の星であると思われる。いずれ人間は現在時の「モラル」、「政治学」、「エロス」、「詩学」を打ち立てなければならなくなるだろう。現在にいたる道は肉体を通過することになるが、それを西欧の近代社会にみられる機械的で猥雑な快楽主義と混同すべきではないし、混同することはできない。現在とは、その中で生と死がひとつに溶け合っている果実なのである。
(pp.66-67)

革命と宗教にはさまれた詩は、もうひとつの声である。詩がもうひとつの声だというのは、それが情熱と幻視の声だからにほかならない。すなわちそれは別世界のものであって、しかもこの世のものであり、古くて今現在のもの、つまり日付のない古代のものなのである。異端的で分派的な詩、無垢で悪意に満ち、透明で濁り、大気を思わせると同時に地下的でもある詩、隠者の庵と街角の酒場の詩、手の届くところにあり、つねにこの世に存在しながらあの世のものでもある詩。すべての詩人は長い、あるいは短い、反復される、あるいはたった一度の瞬間において真の詩人になる。その時彼はもうひとつの声を聞き取る。それは彼の声であって、しかも他者の声であり、誰の声でもなければ、すべての人の声なのである。
(p.172)

 




 日本ではお涙頂戴の感動ポルノが愛され、文学部は消えろと四方八方から叩かれ、売り上げこそ唯一の正義。教養は馬鹿にされ、歴史を直視することもせず、上級国民は責任を取らない。こういうときこそ詩が必要。ただ、パスが言っているようにいまや市民はただの「消費者」なんですよね。詩や文学に何ができるんだろうか。少数の良き理解者に細々と伝えていくくらいしか。そうした細い細い道が不滅であってほしいとはぼくも思います。
☆☆