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ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ『千のプラトー 資本主義と分裂症』

千のプラトー 上 ---資本主義と分裂症 (河出文庫)

千のプラトー 上 ---資本主義と分裂症 (河出文庫)

千のプラトー 中 ---資本主義と分裂症 (河出文庫)

千のプラトー 中 ---資本主義と分裂症 (河出文庫)

千のプラトー 下---資本主義と分裂症 (河出文庫)

千のプラトー 下---資本主義と分裂症 (河出文庫)

 ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ千のプラトー 資本主義と分裂症』の感想です。

ドゥルーズガタリによる最大の挑戦にして未だ読み解かれることない比類なき名著。リゾーム、アレンジメント、抽象機械、リトルネロ、戦争機械など新たな概念を創造しつつ、大地と宇宙をつらぬいて生を解き放つ多様体の思考。器官なき身体/存立平面から“機械圏”へ―来たるべき民衆のための巨大な震源

ドゥルーズガタリによる極限的な思考の実験。中巻では顔貌性、そして逃走線の考察から生成変化をめぐりつつ、宇宙の時を刻むリトルネロへ向かい、絶対的な脱領土化の果ての来たるべき生、来たるべき民衆を問う。

遊牧民が発明した「戦争機械」は国家の外部にあり、国家をたえず危機に陥れる。「国家装置」はそれを捕獲し、労働を発明し、やがて資本主義の公理系と結び合う。しかし戦争機械とマイノリティの革命的な生成変化がやむことはない。かつてない国家、戦争、技術、資本への問いから、平滑空間/条里空間の考察を経て非有機的生に向かう壮大な歴史哲学。

 



 上中下というボリュームなのでスルーしてましたが、そろそろ読まないとなと思ってついに読みましたよ。思ったよりもはるかに読みやすくて、哲学書というよりエッセイのような感じを受け、『アンチ・オイディプス』よりも長いですが、むしろこっちのほうが万人向けでおすすめしやすいかなあと。時間がないひとは上巻の「序――リゾーム」だけでも読んでみるといいのでは。樹木状とリゾーム状の区別が出てきますが、基本的にはそういった話が概念を変えていろいろ語られていく感じです(分子状とモル状、遊牧性と定住性、線のシステムと点のシステム、平滑空間と条里空間など)。
 なんとなく、「リゾーム最高! 脱領土化! 逃走線! 生成変化!」みたいなイメージがありますが、そんな単純なアホみたいな話ではなく、じっと構えて相互関係や因果関係についてもじっくり議論を構築していくようで、その慎重な姿勢には頭が下がりましたし、読みやすいからといってさらっと読み飛ばすのではなく、しっかり精読してこそ得るものがあると感じました。
 たとえば「14――平滑と条里」の最後では、

空間は、そこに行使される力に拘束されて、たえまなく条里化されるが、それはどのようにしてか。また同時に、空間が他の力を発展させ、条里化を通じて新しい平滑空間を出現させるのはどのようにしてか。最も条里化された都市さえも平滑空間を出現させるのだ。遊牧民または穴居民として都市に住むことができる。再び平滑空間を作り出すには、運動、速さ、緩やかさだけで十分なこともある。そして平滑空間は、確かにそれ自体で解放をもたらすものではない。だが、闘争が変化し移動するのは平滑空間においてであり、生が新たな賭けへと向かい、新しい障害に直面し、新しいスタイルを発明し、敵を変容させるのも平滑空間においてなのである。ただし平滑空間ひとつで救われるなどと決して信じないようにしよう。
(下巻pp.297-298)

 



 などとあります。また、「15 結論」では、

一つの運動は、その量や速度がどんなであれ、多数多様と見なされる「一つの」身体を平滑空間に結び付けるときには、絶対的である。このとき身体は平滑空間を渦巻きながら占めるのだ。一つの運動は、その量や速度がどんなであれ、一と見なされるある身体を条里空間に結び付けるときは相対的である。このとき身体は条里空間を移動し、少なくとも潜在的な直線群にしたがって空間を計量するのだ。〈脱〉がこの第二の場合にしたがって作用するたびに、つまり逃走線を抹消する原理的な再領土化によって、あるいはまた逃走線を切片化し、挫折させようとする二次的な再領土化によって作用するたびに、それは否定的または相対的となる(たとえそれがすでに実効的となっても)。〈脱〉は第一のケースにしたがって、新しい大地の創造を行なうたびに、つまり逃走線を連結し、抽象的な生命線の力能に導くたびに、あるいは存立平面を描くたびに、絶対的となる。しかしすべてを複雑にするのは、この絶対的な〈脱〉は必ず相対的な〈脱〉を通過するということである。まさに絶対は超越的ではないからである。そして逆に相対的または否定的〈脱〉は、作用するために絶対的なものを必要とするのである。それは絶対的なものを、「包括するもの」、全体化するものに変え、それによって大地を超コード化し、逃走線を接合し、結局は停止させ、破壊するのであって、創造するために逃走線を連結するのではない(この観点から、われわれは接合と連結を対立させる。非常に一般的な観点からは、われわれは二つをしばしば同意語と見なしてきたのであるが)。それゆえ、否定的あるいは相対的な〈脱〉そのものにすでに介入するような限定的な絶対が存在するのである。そしてとりわけ絶対のこの転換点においてこそ、逃走線は単に阻止され、切片化されるだけでなく、破壊や死の線に変わる。ここにはまさに絶対における否定と肯定の賭けがある。
(下巻pp.315-316)

 



 などと書かれています。




 面白いと思ったのはいろいろありますが、たとえば、

マイノリティとマジョリティの区別とは、マジョリティの場合、一人の内的関係は、無限であれ有限であれ、数えられる集合をなすのに対し、マイノリティの場合は、その要素の数にかかわらず、数えられない集合として定義されることだ。そして数えられないものを特徴づけるのは、集合でも要素でもなく、むしろ連結つまり「と」であり、要素と要素のあいだ、集合と集合のあいだに発生し、両者のいずれにも属すことなく、それらを逃れ、逃走線を形成するものなのだ。
(下巻p.238)

マイノリティの特性は、たとえたった一人のメンバーからなるマイノリティであっても、数えられないものの力能を際立たせることだ。
(下巻p.240)

 




 のあたりとか。




 ていうか、こんな分厚い本の感想書くとか不可能ですなw 解説で、「たぶんいちばん必要なのは、もはやこの本の図式を理解することでも、それを使用することでもなく、その思考の流線の渦にまきこまれ、その深みにもぐっていくことだ。そこから何が出てくるかわからないが、その方が図式的にわかってしまうことよりはるかに、この本の意図の核心に触れ、何かを生み出し、変えることにつながるにちがいない。いくつかの斬新な図式だけを読みとることは、この本の〈顔〉を読むことではあっても、その〈身体〉を読むことではない」(p.388)とありますが、ぼくもそう思いますね。とにかくまず読んでみたらいいんじゃないでしょうか。めんどくさかったら「序――リゾーム」だけでも。
☆☆☆