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『甲鉄城のカバネリ 海門決戦』の感想・考察――境界線の破れ

 この作品は『甲鉄城のカバネリ』の続編です。今回の記事は前作も含めたカバネリ全体の感想、考察です。


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世に産業革命の波が押し寄せた頃、突如として不死の怪物が現れた。鋼鉄の皮膜で覆われた心臓を撃ち抜かれない限り滅びず、それに噛まれた者も死後蘇り、人を襲うという。怪物は「カバネ」と呼ばれ、爆発的に増殖していった。世界中が恐怖に覆われる中、日ノ本の人々はカバネの脅威に対抗すべく各地に「駅」と呼ばれる砦を築き、その中に閉じ籠もることで生き延びていた。この駅の間を行き来できるのは装甲蒸気機関車(通称、駿城)のみだった。製鉄と蒸気機関の生産を行う顕金駅に暮らす蒸気鍛冶の少年生駒(いこま)は、カバネを倒すために独自の武器「ツラヌキ筒」を開発しながら、いつか自分の力を発揮できる時が来るのを待ち望んでいた。そんなある日、駿城の一つである甲鉄城が顕金駅にやってきた。生駒は甲鉄城の整備の最中に不思議な少女、無名(むめい)と出会う。そしてその夜、顕金駅にカバネの脅威が押し寄せてきた!


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世界中に産業革命の波が押し寄せ、近世から近代に移り変わろうとした頃、突如として不死の怪物が現れた。後にカバネと呼ばれる事になるそれらは、甲鉄の皮膜に覆われた心臓を持ち、噛んだ者までもカバネにしてしまう。カバネは爆発的に増殖し、全世界を覆いつくしていった。極東の島国である日ノ本で、分厚い装甲に覆われた蒸気機関車、通称・駿城の一つ、甲鉄城に乗り込んだ生駒たちは、熾烈な戦いを潜り抜け、カバネと人の新たな攻防戦の地、日本海に面する廃坑駅「海門」に辿りついた。生駒たちは、同じくカバネから「海門」を奪取せんとする、玄路、虎落、海門の民と「連合軍」を結成し、カバネ撃退の策を立てるのだが、「海門」の地にはある〝秘密〟が隠されているのだった-。

 



 この作品ではゾンビのようなものがカバネと呼ばれ、人とカバネの中間がカバネリと呼ばれています。主人公の生駒(いこま)とヒロインの無名(むめい)もカバネリです。基本的にはそれだけ理解していればこの作品を楽しむのに十分だと思います。




 この作品には際立った区別が存在します。人とカバネがそうですし、駅(人の世界)と駅の外(カバネの世界)がそうです。そしてそれぞれに中間項が存在します。中間項はカバネリであり、甲鉄城などの装甲蒸気機関車(あるいは線路)です。カバネリはある程度人でもありある程度カバネでもあります。装甲蒸気機関車は駅の内にも外にもとどまっていない存在です。この作品は際立つ二項対立が存在すると同時に、分類の難しい中間項が存在するわけです。前作『甲鉄城のカバネリ』のOPでは「貴様、人かカバネか」「どちらでもない。俺はカバネリだ」という象徴的なやりとりがあり、こういった「どちらでもない」存在が強く意識されているということが明示されています。
 この作品全体の作りも単純な二項対立を否定するものとなっています。人々の生活様式は純和風ですが、似つかわしくない仰々しい蒸気機関や鉄のイメージがこの作品を支配しており、二つの世界観が侵犯し合っています。曲線的な和と直線的な洋が存在し、お互いがお互いに取り付いています。和でも洋でもない中間項としてこの作品世界(架空の日本)が存在しています。これは「何とも言いがたい世界」であり、この作品を見て実際に体験し触れないとわからないものでもあります。境界線を設定し何か(和)と何か(洋)を区別することによって簡単に語ることなどできないわけです。既存のある指針も他の指針も役に立たず、その環境に実際に潜り込んで新しい情報をそのまま受け入れるしかありません。
 この作品は大雑把に言うと境界線を破壊するものなのだと思います。どこにも安全圏はなく、つねに他者(カバネ)が流れ込んでくるというのがこの作品の基本的なストーリーになっています。作中のキャラクターたちはそういった世界に身を投じて生きています。




 今回新作を見て象徴的だと思ったのは以下のシーンです。隠されていたカバネの侵入経路を見つけるところです。実際、この境界線は簡単に破られてカバネに侵入されてしまいます。




 ここは駅(内部)が外部につながっているという象徴的な描写だと思います。どこにも完全な境界線はなく、システムや領域は侵犯あるいは破壊され、その後外部の環境と混ざり合って新しいものになっていく(再生、復興)という流れが読み取れます。もちろんここ以外でも前作から駅はカバネに襲われ侵入されていたりするわけですが、とくにこのシーンは印象に残りました。
 中間項的存在であるカバネリの生駒だけがこの隠された抜け穴の存在を感じ取っていて、他の「人」たちはそんなこと考えもつかないというのも象徴的です。カバネリである生駒は境界線が破れた状態で存在している存在(中間項的な曖昧な存在)ですが、他の「人」たちは人とカバネを明確に区別していて、その境界線が堅固に存在することを信じている存在です(だから内部と外部をつなぐ抜け穴すなわち境界線を破るものが存在することなど想像できない)。
 また、ボス級のキャラクターがカバネリになったエピソードが出てきましたが、自分が人なのかカバネなのか聞いたときその場に居合わせた人たちは「人」と答えられなかったともありました。その場に居合わせた人たちは「人」でしかなく明確な二項対立しか理解していない存在なので、人でもカバネでもない存在に対して恐怖するしかなかったわけです(「人」の言語ではまだ「カバネリ」という曖昧な存在を語り得なかったわけです)。一方、生駒の言葉を信じた仲間たちは彼らの家が駅と駅の間を移動する甲鉄城というのも示唆的ですが、境界線の破れに気づきつつある存在と言えるでしょう。(余談 ドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』には「点のシステム」と「線のシステム」という区別が出てきたと思いますが、「人」の世界=各地に点在する駅はまさに見た目にも点のシステムであり、甲鉄城に乗って移動する主人公たちはまさに線のシステムということになるでしょうか。点のシステムでは「人」たちは物事を簡単な図式で理解し、明確に境界線を引いて語り、そういった思考を全体化し、「世界はこんなものだ」と侮っていますが、線のシステムでは「カバネリ」という曖昧な存在が曖昧なままに受け入れられつつあり、他者を理解するのに時間をかけます(主人公周辺の関係性の変化)。「人」の世界には安易な肯定と安易な否定があり、「カバネリ」の世界ではすべてが両義的で複雑です。)




 他者というのは本来カバネリ的な両義的で曖昧な存在です。その点からすれば、カバネは「人」が真の意味では(怠惰にも)理解しなかった他者だと言えるでしょう。カバネは他者を軽視し侮る視線を代理しているのでしょう。もちろんそういった視線は不安や恐怖を含んでいるかもしれません。とにかく他者の人格の無限の複雑性に目を向けず、「こんなもの」と安易に境界線を引いて語ることが「人」的な行いなのです。「人」たちの外面は優しいかもしれないけれど本当の意味では他者を敬わず尊重しておらず、そういった暴力を含む態度がカバネという存在に具現化されています。
 カバネはないがしろにされた他者であり、他者をないがしろにする自分の心とも言えます。一方で、カバネリという曖昧な存在に向き合うことが人間に対して真摯に向き合うことに対応しているように見えます。人間というのは人かカバネかで語れる境界線の明確な単純な存在ではなく、人でもありときにはカバネでもある曖昧な存在なのです。そして曖昧な存在である他者に対してどう接することができるか、それがこの作品の鍵だと思います。重要なのは曖昧な存在を曖昧な存在だと認識することであり、曖昧な存在をこれこれこういう存在だと決めつけないことです。他者に対する既存の知識をすべてだと思わないこと、それはこの物語にもいくつか出ていますが「愛」という形で表現されるものでしょう。他者に対する愛なき視線はカバネに具現化されていて、そのカバネは「人」を襲います。他者に対する愛なき視線が結局は境界線を越えて自分を殺しにくるというわけです。




 恋愛模様が強調されたことにより、わかりやすく「愛」が浮かび上がってきました。愛は閉鎖的な駅に相応しいのではなく、駅と駅の間にあります。愛とは境界線を壊すことなのです。